■ 蝸牛庵から ■(本誌連載エッセイ)

●No.19●《蛸と盆》

 メメントモリ。死を想え。お盆の季節、先祖や近しい人の死をこの時期に思い出す人も多いでしょう。連綿と続く生と死、生物学的にはあまりに当たり前な生理現象ですが、いざそれに直面すると、悲しみをはじめとしてあまりに数多くの感情が渦巻きます。しかも、この家庭にとっては余りにも大きな事件であっても、すぐ隣ではまったく感知しない出来事だったりします。日常と非日常が薄皮一枚で重なっているのが人の死だともいえます。
   メメントモリとは、ペストがはやった時代に生まれたイタリアの言葉だということですが、阿部晴明などの陰陽師がもてはやされていた平安京の時代、飢饉をはじめとする災害に喘いでいた人々も常に死を身体で感じていたはずです。結局、死とは個人的な出来事ですが、マスでの死というのは、ただただ死を想うしかないということでしょうか。現在、マスでの死というのは地震などの災害、飛行機墜落などの事故、そして病気、さらにはあってはならない戦争というのが挙げられると思います。こうした不慮の死に遭った人々は、何を思い呟いているのでしょうか。
   ある意味で死とは、生者に思われることにも通じるのではないでしょうか。萩原朔太郎の短編に「死なない蛸」というのがあります。この小説は非常に逆説的な表現でとてもユニークな死生観が組み込まれています。もはや誰にも相手にされない水族館で飼育されている蛸、ガラスの水槽の中で、餌も与えられず死んだと思われ無視されています。空腹と無視されていることのいら立ちの中、その蛸は、信じられないことに自分の身体を食べはじめます。最初は足から、そして内臓を、見事なまでに全てを食べ尽くした蛸は、形としてはこの世からなくなりますが、その蛸の死を知らない世話係や見えないだろうけどどこかに隠れているのでは? という水族館を訪れる客にとっては生きているのです。
   最後の「けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまった後ですら、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。永遠に おそらくは 幾世紀の間を通じて 或る物すごい欠乏と不満をもった、人の目に見えない動物が生きて居た」にぞっとする一瞬が詰め込まれていることに気付かされます。特に「欠乏と不満をもった」という一節に絶望的な衝撃を受けます。人を供養するというのは、死者に「欠乏と不満」を持たせないがためのものだと蝸牛には響いてくるのです。そして、更には「欠乏と不満」を持た(せ)ない死ということも考えてしまいます。最後の木苺を食べ、ミニ薔薇が枯れたらニガウリと向日葵が高い空に向かって伸びています。お盆の季節です。
 

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